断崖絶壁と白砂の入り江がかわるがわる現れ、その向こうにはセルリアンブルーの播磨灘がゆったりと広がっている。ここは、通称“七曲り”。網干から相生まで、海と山にはさまれた道がうねうねと続いている。
室津はこの道の途中、深く切れ込んだ入り江沿いの町だ。天平時代以後、大変なにぎわいを見せたこの港町も、いまはその疲れをいやすかのようにひっそりと静まりかえっている。歴史と伝説とロマンの変遷をじっと見守ってきたのは、青い海と梅の木なのだろうか。
【僧行基が定めた摂播五泊】
神武天皇が九州から大和の国へ東上の際、針間(播磨)の海岸で上陸点を探していた。
この時供をしていた賀茂建角身がここを発見。海面も見えない程藤や夢(かずら)が生い茂っていたのを、家来達と斧、鉈、鎌で伐り払って港をこしらえたという。現在でも祭りの時、この三つの宝刀がお旅の行列に加わる。
播磨国風土記には、
此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す
と記されている。古来より折り紙つきの天然の良港であったことがうかがえる。
そして、奈良時代には、高僧行基によって摂播五泊の一つに定められた。行基は弟子と供に諸国をまわって説教し、橋を架け、道を造り池を掘り、寺を建てた人で、摂津と播磨で五つの良い港を選んでいる。古代から千数百年間続いているのはこの室津だけで、以来多くの僧、貴人、市井の人々がここを通り過ぎて行ったという。
【清盛が、法然上人が、足利義満がおり立った】
やがて、室津は海上交通上大切な港となる。高倉天皇に従って厳島神社に参拝する平清盛が寄港し、賀茂神社に海路の無事を祈った。讃岐に流される法然上人は、往きと許されて帰りの二度立ち寄る。戦の途中の足利尊氏は、見性寺で作戦を立て直した。そしてその孫義満は、厳島神社参詣のために寄港。江戸時代になると、奉行が政治を行った政所を大名の接待用の御茶屋に改装。参勤交代が実施されると、大名行列で大変な混雑ぶりとなった。小藩で二百名、大きな藩になると四百人を数えたという。港口番所(今の港湾事務所)もりっぱになり(東西110m、南北18m)灯籠合も建てられた。お侍だけでなく、干いわしなどを満載した北前船も続々入港、景気の良い活気を町にもたらしていた。いったいどれだけの人が、ここ室津に足跡を残したことだろう。
【賀茂神社のお膝元で潤い、室津千軒に】
千数百年前の室津開港とともにまつられ、京都より賀茂別雷神を奉遷して海路の安全を見守ってきた賀茂神社は、室津発展の礎となった神社だと言える。諸大名による寄進は、賀茂神社の氏子として室津の町を潤し、現在の銀行組織のような銀元制度まであった。ここで金を借り、船を仕立てて大きな商売へ挑戦したのである。商売は繁昌し、大名にまで金を貸しつける豪商も誕生した。諸大名が宿泊する本陣が六軒、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋、揚げ屋、置屋など、軒をつらね、文字通り「室津千軒」のにぎわいであったという。おそらく、賀茂神社をいだく社領として、大名や幕府に屈することのない、自由都市のような雰囲気の町だったのだろう。
しかし明治維新、海上交通にかわる陸上交通の発達などの時代の波には、歴史の重みなどひとたまりもない。室津はみるみるうちに衰退の一途をたどっていった。
【港町は、人と人との出会いの場】
■性空上人と室君
書写山円教寺の開祖性空上人は、ある夜室の白拍子が普賢菩薩だという夢のお告げを聞く。室君花漆は、性空上人に舞終わると、白象にまたがり西方に飛び立とうとした。
この時上人のつかまえた白象の尾が抜けたので、花漆の館であった町を「尾の町」と名付けたとか。今も残る西家が花漆の館であったと伝えられている。
■法然上人と友君
法然上人は讃岐に流刑の途中、風待ちのため寄港した室津で遊女友君に逢う。上人の説法で友君は後年尼となるが、許されて京にもどる上人が再び立ち寄った時、友君はもう亡き人であったという。この友君は木曽義仲の思われ人だった山吹御前で、流れついた室津で舞いを見せ、遊女のはじまりと伝えられている。はかない一期一会の出会いの物語は、町として盛りのすぎたいまの室津にとても似つかわしいようだ。
■お夏清十郎
清十郎恋しさに狂乱したお夏は姫路の商家の娘だが、清十郎はここ室津の生まれ。造り酒屋の息子であったそうだが、いまは清十郎生家跡が残るばかりだ。
■谷崎潤一郎と竹久夢二
この二人は、町では出会わなかった。室津という町との出会いが、それぞれ小説となった。戦前、木村旅館に滞在した谷崎は、「乱菊物語」を書き、同じく夢二は木村旅館の女主人をモデルに「室津」を描き残した。この町は、芸術家達に創作上の何かを与えるところらしい。
海を感じながら、歴史ロマンに身をひたしてみる。室津は、ゆっくりと歩いてまわりたい。
■賀茂神社
岬のうっそうとした森につつまれてたたずむ賀茂神社は、見事に往時の姿を伝えている。本殿など五つの社殿はいずれも流造、桧皮茸で、国の重要文化財。神社の裏手に海岸沿いを右手に行くと、港口番所跡がある。そのすぐ近くにある、直方体の大きな石がおもしろい。秀吉の大阪城築城に際し、九州の大名が運んでいたものだが、ここで網からあすれて打ちすてられたとか。誠に残念、というので“残念石”という。
■浄運寺
創建は約八百年前の鎌倉初期。法然上人二五霊場の一つで、ゆかりの遺物も残されている。上人が友君をさとすために送った
かりそめの色のゆかりの恋にだに
あうには身をも惜しみやはする
としたためられた色紙だ。その他上人ゆかりの木像や袈裟も大切に保存されている。
お夏の木像に手を合わせる女性も多いとか。発狂して清十郎を求めてさまようお夏の声が、どこからか・・・。港に向かって立つ友君の墓。いまは、波音を子守唄に安らかに眠っているのだろう。
■見性寺
室君花漆が建立したといわれる見性寺には、国の重文に指定された日本最古の木造毘沙門天がある。高さ2.5mもある仏像だ。やはり室君は、町の有力者の娘だったのだろうか。室君は、唐船の貴人からもらった贈り物を朝廷に献上。この時賜った千両で、五ヶ寺を建立したうちの一つだとか。遊女の規格からは、少々はずれている。氏素姓が正しく、姿形が整い、歌や舞に秀でた町を代表する接待係。高貴な身分の客だけに限られる。いまで言うとミス室津といったところか。
■静寂寺
1575年開基のこの寺には、転法輪と名付けられた経蔵がある。中には阿弥陀如来と三蔵法師が祭られ、たくさんの一切経の本が収められている。
■徳乗寺
開基は、足利時代の1491年。親鸞聖人御真等金色の弥陀の御影が、宝物である。
■大聖寺
創立は不明。徳川家綱の頃再興された。御本像は最も古いといわれる日蓮上人像だ。
■竜福寺
見性寺の末寺。港口番所の所にあったとされるが、いまはない。
■浄名寺
同じく見性寺の末寺。大変大きな紅梅があったとか。現存していない。
■大雲寺
やはり見性寺の末寺。霊験あらたかな医薬を司る仏と、財宝福利を得られる毘沙門天が祭られ、大勢の人々が参ったという。現存していない。
■室津民族館
老朽化し、次々に朽ちはてていく本陣を前に、町が家を買い取り、修理して資料館を誕生させた。豪商魚屋の居宅で、部屋数はなんと23。箱階段や隠し階段、貴人専用の「御成門」など、興味はつきない。栄華を極めた頃、金を蓑ですくったとか、使い途に困って豪華な仮結婚式を催したなどの説が残る室津だが、なるほどと思える豪壮な建物だ。
(入館料100円。午前9時から午後5時まで。月曜休館) |